運はどこかで全体とつながっている。
「個人」という考え方がすでに無知を知らない。
何故、土の庭で神輿を担いだのか?
話は長くなってしまうのだがお聞きください。
この四回目のオープニングを計画している段階で気分は「自分を捨てる」コトに取り組もうとしていた。
それは僕たちがパフォーマンスをする上で面白いと思う事が「捨てている姿」を見せる事なのかなとウルっと感じていたからかもしれない。
最初の段階ではそう言った事を村木太郎がやるという話だったのです。
「11月いっぱい考えて思いつかなかったら2人に相談しする。」となって
そんな保険があっては思いつかないだろうとお断りしたのを覚えています。
僕はご存知の方もいるとは思いますが普段から褌をまとっています。
大きいパンツは家には一枚もありません。
そんなこんなで褌でご神体のマラを担ぐ神輿会には以前から何度か誘いをうけていました。
パフォーマンスを考えていた(お断りはしたが)このタイミングで友達づてに再びそんな話が舞い込んできた。
そこでピンっと来てしまったのだ。
なぜ今まで参加しなかったかというと恥ずかしいからだ。
僕はそのハードルを越えようとは今まで思わなかったがこっちのそれとあっちのそれがココで合致してしまった。
そして「自分を捨てる」以外にも何かあるように思えた。
という訳で村木太郎の引率として僕も神輿に参加することになる。
実は昨年12月に一度神輿会に2人して参加している。
あの時はブルーシートのハッピが出来立てで嬉しくて持って行った。
でもほとんどフン一で担いだのでメチャンコ寒かった。
しかし、あれは2022の暮れにして大きな衝撃を僕に与えた。
そしてそれは土の庭4のオープニングに繋がっていく。
あの神輿は人を乗せることもあって担ぐ人数が揃わなければ成立しなかった。
最初は参加する予定で無かった紅林親も必然的に+1に。
それでも全然足りていなかったので告知しながら募集した。
参加してくれた皆さんに少し涙目で感謝します。
嬉しかったです。
僕らは自分たちの嚙み合わない一部分で対立する。
お互いの身体を見てもわかるようにあなたと私はほとんど一致している。
許せないとしたら一部分だけなんだよ。全部は錯覚。
別の言い方をすれば完全に一致しない人たちが一つの神輿を担ぐ。
違う考えの人が神輿を担ぐという意思を持って集まる。
まつり合わせの型。
何とか党の人と何とか党の人と何とか党の人で担げばいい。
政治家にやってもらって、そういう気持ちでやってることを表明してほしい。
で、我々もそういう意味で、そしてそういう意味でなく神輿を担いだ。
仲の良い人だけでこの世界を過ごしていけるのならこんな事はする必要が無い。
でも世界はそうではないと思う。
まつり合わせる必要がある。
現実はそうなんだと思った。
今回の展示がどれだけの意味があったのか、今すぐには分からない。
大したことは無かったかもしれない。
もし意味があるとしたら楽しみです。
伝えると伝わるの違い。
伝えるは発言や表現によってAからBに伝える事。
伝わるはそれによってBが何か行動を起こす事。
作品はある一つ(または複数)の考えを固定する装置。
ここ(blog)で作品説明なんてするのも面白いですね。
写真は今回、土の庭で展示した作品の輸送時の写真です。
オープニングご覧になった方の気持ちをここでもっと早く伝えることが出来たらと今日思います。
写真はオープニングの主要な要素。
現実を理解するには時として非常に時間を要する。
もしそこに行為が無ければきっとそれは永遠に断絶す。
聞いてくれたまえ、みんな。
我々は今回、これら展示の一部を準備した。
土の庭は4回目を迎えテーマを『世界』に据えた。
一件テーマに見えないようであるが我々の世界を我々なりに考えるというそういう回であった。
これはよくある銭湯などの『ゆ』に対するアンサーであり長年の夢であった作品。
オリジナルフォント。
木陰から深夜に向かって走る光線。
片足が4メートルほどある。
君の二倍と少し。
ヤバくないか?
そして動く。
ひとの労働によって。
労働の概念。
(仕事は楽しくなったら勝ちだね。)
そしてなんて貴重な存在の全体なのだと思う。
肉眼で見たらびっくりするだろう。
でももう遅いってことは人生には度々あるんだよ。