最近思った事。
人間の器量を指して『器が大きい小さい』みたいな表現がある。
その器について僕の感覚だと寛容であるって言いかえる事ができると思うんですが皆さんどうですか?
で、同時になんとなくその器って先天的というか生まれ持ったモノみたいな感じで語られる事が多いと思うのだけどそれはどう思いますか?
前者の寛容である事に関して先天的な部分はもちろんあるとして寛容って自分の経験を積むことによって様々なケースが出てくる中で「あ、これは思い込みで許せなかった事あるな」とか「その気持ち分かるわ」とかって感情が芽生えてきて終いには「5年経たなきゃわからない」なんて境地に達しその寛容さを増していくのではないのだろうかと思った。
つまり器はデカく出来る論。
0 件のコメント:
コメントを投稿