あれは僕が中学位の事だろうか。
アイルトン・セナが死んだ。
昔はテレビでF1が放送されていてそこまで夢中になった訳では無いがF1というくくりの中ではセナを応援していた。
そのセナが死んだ時、僕は泣いた。
芸能人が死んで泣いたのはこの時が初めてだったのでよく覚えている。
生前セナは高速道路を滅茶苦茶なスピードで走ってスピード違反で捕まった。
法律違反は悪と認識していた歳なのでセナは僕の中で少し悪い奴になった。
でも死んだあとだったと思うのだけど貧しい人たちに多額の寄付をしていたのが分かってセナ、良い人、に戻った。
そんな記憶が確かか分からないが何故かそんな事をウルっと思い出しながらセナってもしかしたらクリスチャンだったのかもしれないなと思ったのだ。
相変わらず僕は聖書を読んでいてイエスキリストの「右手の親切を左手に知らせるな」と言う言葉すごく気に入っている。
それは自分の事を良い人だと見せようとして親切をするのはいけない。と言う事だと思うのだけど全く持って僕はそんな事は出来ていない。
作品を作る事は色んな要素や感情によって出来上がっているモノだけど僕の場合は深堀するとそこに自分をよく見せようとする感情がこびりついているように感じる。
それだけではなくあらゆる対人関係によく見られようとする感情が含まれているように感じて時折恥ずかしくなったりする。
だけどセナのように隠れて誰からの見返りも求めずにする親切は存在していたりすると思うのだ。
だからそれは出来ると言う事。
と言いつつこの文章にもそれが含まれているかもしれず難しい問題にめげそうになるのだが「右手の親切を左手に知らせない」ことには何か社会問題をクリティカルに解消する光を見たりするのでした。
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