2020年4月1日水曜日
勧誘
今年はエイプリルフールに間に合わせのネタも思いつくことも無く日付が変わりそう。
何にも出ない時は出ない。
それで良いと思えるようになってきた僕はあと少しすると40歳。
この前のMY AMBIENTなる文章を読み返してみてほのかな恥ずかしさと言いたいことをカッコよく伝えるのは無理だな&止めようかなという感想。
とは言え赤裸々に語ると言うのもその才能が必要だと思う。
でも試みる事はだれでも出来るとも思いましたのでしたためます。
日月神示に最初に触れたのは長男が産れた前後だったと思うのでたぶん読み始めて6年位。
最初からガッツリという訳では無く徐々に魅かれて言った感じ。
何しろビギナーには難しかったので現在進行形で何度も読んでいる。
それとその流れで聖書も一昨年の秋ぐらいから聴いている。
通勤の行き帰りに僕のイヤホンから流れているのはハウスミュージックではなく実は福音書。
まだまだ肚に収まってきたとは言い切れないですがそろそろ口を開くタイミングかなと自分では思ってこんな感じです。
これだけ聴くとただ宗教にハマった心の弱い奴と反応が返ってくるだろう…。
そんな不安が今までの自分にはあったし今も無い訳ではない。
なぜこうなる経緯に至ったか、それはそれなりに理由があってそれが上手く伝えられたらなと思っていたのだけど何度も取り組んでは没にする時間の無駄を感じてしまったのです。
因みにだけど何処かの教会に行って集会に参加しているとか教祖がいる団体に所属している訳ではない。
例え少しでも神様で金もうけをしている人はアウトです!
自分⇒宗教団体⇒神様が一般的な宗教のイメージだと思うのだけど僕が自分でやっているつもりなのは 自分⇔神様 もしくは 自分⇔日月神示、聖書⇔神様 みたいな感じですかね。
その辺が自分では新しいなと思っています。
あと自分的には政治とか社会問題に取り組んでる人と同じような気持ちもある訳で自分の声は遠くの政治家には届きそうもないし政治は社会に対して一時的な絆創膏みたいな役割は出来ても完全治癒という事は不可能なのではないかなと感じた結果、自分をまともにしようとシフトチェンジしたつもりです。
話しがちょっと逸れちゃうけど僕がもっていた政治への怒りって『ばれなきゃ大丈夫』みたいな侮られてる気持ち悪さにあって、その『ばれなきゃ大丈夫』みたいなことを自分がしていなかったかと言うとそうでも無くて、人差し指を指したら3本はこっちを向いていたことに気が付いちゃった的な。
日月神示では「改心急けれ」イエスキリストは「悔い改めよ」と言う風に一致する部分も多い2つの書物です。
結局この現代に必要なのは個々のそれでは無いのかなと思う今日この頃。
自分としては自分が愚か者だからこそそこに気が付いちゃったと思うしそんな愚か者に言われても腹が立つと思いますが僕が言ってるんじゃなくて本に書いてあるんです。
悪しからず。
結局何が言いたいかといいますと『日月神示』『聖書』ともに読んでみてくださいと言う事。
そこの社会を憂うあなたならきっと僕より理解できると思います。
自分で読んだり聴いたりする事にも意味が隠さられているように感じていますし。
で、滅茶苦茶奥が深い。奥の細道です。
両方ともネットで検索すると出てきます。
何ならワードのデータ送りますので連絡ください。
susput@gmail.com
思いっきり勧誘?(笑)
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