2021年4月27日火曜日

愛を思う






















なんかこの世のほとんどの人は愛と言う感情を知らないのではないかと思った。

何を突然恥ずかしい事を言い出すのだと思われたかもしれない。
だけど愛の話が恥ずかしいと思う事自体が愛と言う感情を知らない裏付けだったりしないか?

家族や恋人、友人に向けられるあの時にむず痒い様な感情、明るい気持ちを愛と呼ぶのかもしれない。
だけどそれにはコール&レスポンスが伴っていたり、自分に対して優しい人間である暗示が入り交じっていたりする。
だからそれが愛と言う感情だと断定するのは早い。
何かしてあげたい、何かしてあげた、だから自分に愛があるとはいかない気がする。
特定の人にそれをする事はどちらかと言うと欲なんじゃないかな。

もしも多くの人が愛と言う感情を知っていたなら世の中はこんな感じになっているだろうか?
知らないからできないで当たり前だと思う。
知らないんだと思う。

僕は知らないかも知れないんだが先日もしかするとこれかな?というフィーリングを感じた。
愛の話なんでもちろん気のせいだ。
や、もしかするとみんなはとっくに知っていて僕だけ遅れていただけかも知れないんだけど行き違いで愛されておりましたらご容赦下さい。

ともかく前より少し人間が愛せそうな予感がする。


余談だけど五十音があいから始まるすげーな日本。



2021年4月3日土曜日

右手、左手を知らず


















あれは僕が中学位の事だろうか。

アイルトン・セナが死んだ。

昔はテレビでF1が放送されていてそこまで夢中になった訳では無いがF1というくくりの中ではセナを応援していた。

そのセナが死んだ時、僕は泣いた。

芸能人が死んで泣いたのはこの時が初めてだったのでよく覚えている。

生前セナは高速道路を滅茶苦茶なスピードで走ってスピード違反で捕まった。

法律違反は悪と認識していた歳なのでセナは僕の中で少し悪い奴になった。

でも死んだあとだったと思うのだけど貧しい人たちに多額の寄付をしていたのが分かってセナ、良い人、に戻った。

そんな記憶が確かか分からないが何故かそんな事をウルっと思い出しながらセナってもしかしたらクリスチャンだったのかもしれないなと思ったのだ。


相変わらず僕は聖書を読んでいてイエスキリストの「右手の親切を左手に知らせるな」と言う言葉すごく気に入っている。

それは自分の事を良い人だと見せようとして親切をするのはいけない。と言う事だと思うのだけど全く持って僕はそんな事は出来ていない。

作品を作る事は色んな要素や感情によって出来上がっているモノだけど僕の場合は深堀するとそこに自分をよく見せようとする感情がこびりついているように感じる。

それだけではなくあらゆる対人関係によく見られようとする感情が含まれているように感じて時折恥ずかしくなったりする。

だけどセナのように隠れて誰からの見返りも求めずにする親切は存在していたりすると思うのだ。

だからそれは出来ると言う事。


と言いつつこの文章にもそれが含まれているかもしれず難しい問題にめげそうになるのだが「右手の親切を左手に知らせない」ことには何か社会問題をクリティカルに解消する光を見たりするのでした。