先々週の土曜日から長男、そして日曜日から母親が立て続けて体調を崩したので月曜日、僕と次男、次女は病院の駐車場で二人が帰ってくるのを待っていた。
長女は学校へ行った。
買って間もないデビッド バーンの新譜を聴いていると携帯電話が車内で鳴った。
それは週に2回勤めに行っている会社の同僚からだった。
勿体ぶらずに話をするとつまりその日の朝、会社で火事が発生し我々が作業をしていたスペース及び倉庫が燃えたという報告だった。
その火はこちらにも飛び火して少し僕を焦がした。
そうしている内に妻子が院内から戻ってきて「インフルエンザA型だった。」と言ったのだがこちらはもう焦げてしまっているので何とも思わなかった。
そんなこんなで会社には僕が出来る作業がないためその週はお休みとなったのだが看病に相まって火曜から僕もA型の仲間入りを果たしたのだ。
そんな先週を経てA型から普通のO型に戻ったのち、会社からも復旧作業に入り出社の要請が来た昨日。
なので安心していただきたいのと一瞬でもざまあみろと思ったこのブログの変わった読者に言いたいことが今日はあります。
何かが現実的に始まっている。
僕はこれら一連の流れを何かの警告だと受け取っている。
何か…。
それは日月神示的に言うところの大峠の時。
大分読んだあの聖典は要約すると我々に反省や自分を見つめなおすように促している。
そして本当にその時が来た時、切り抜けていけるような強い心を作って置くように進めているように僕は感じている。
今回色々な角度から、そしてここに書いていないそのような事柄から僕は自分の通常の生活が脅かされているように感じた。
実際はにそうならなかったし、脅かされた時の想像は次のステップにまで進めることが出来た。
それは神様という存在が自分の中心をそちらに移行することを可能にしているからだ。
極個人から全体へと感覚を広げることでそれがただの出来事の流れとして受け止めることを可能にしている。
流れなので必ずその先がある。
乗り越えるしかないという選択肢はある種の覚悟を産む。
具体的に反省とは御霊磨きとはなんなのか。
一部においてこんな考えが出来ると思う。
罪は神様しか赦すことができない。
なぜなら殺されてしまった人はもう殺してしまった人を赦すことは出来ませんよね?
殺人に限らず本当に罪を赦すことは人間にはできない。
だから罪を清めるためにはマインドにおいて神様に赦しを乞う事しかできない。
それを大半の人がしていないという事は穢れているという事なんだと僕は思います。
なんか最近僕みたいなマインドに陥った人が居たらここはラッキーだと思って反省の入り口だと思って入ってみてほしいです。
僕が大好きなALEX KASSIANのSpirt of Edenて曲が入っている12inchの帯に小さくかなり分かりづらいのだけど達磨のイラストの横にこんなメッセージが書かれていた。
”どってことないやないか こけたらたちあがるだや”
